欲がなくなって求めなくなるのがいちばん危ない気がしますね。
欲望は生に対する源泉。
格別どこへ出かけたいとも思わない。
人に会いたいとも思わない。
新しい体験をしようとも思わない。
普通に生きていれば、人間それなりの刺激を受けるはずですが、
その刺激を弱めよう、もう要らないとするのは明らかに劣化の兆候です。
こうなるとマンネリをどうとも思わなくなり、
旅をしたいなんて思わなくなるのでしょう。
これが経済状況と連携するから始末に負えません。
昔できていたことができなくなる、のは体力的な要因が
あるのでしょうが、昔できていた発想ができなくなるのは、
悲しいことですね。
最近悲しいと思ったのは、参考にしていた
とある自然観察のブログからの発見がぐっと減ったこと。
↑鳴き声だけがうるさい、すばしこい季節もののミヤマカケスも撮る気になれば撮れるはずです。なにしろ図体はハト大で声だけじゃなく羽色も目立ちます。実際に過去に撮っているわけで。
もちろん自分の判断力・発見力が以前と違ってきたせいもあるわけですが、
「期待してそこへ行ったが期待通りでなかった」
というケースをよく見かけるようになりました。
そのブロガーさんの10年をゆうに超える「自然観察」のキャリアをもってして、
どの季節にどんな天候でどんな景観が期待できるかの感覚は
鈍ってしまうものなのでしょうか。
日常を綴るブログだから、それでもいいだろうと本人が考えているフシが
ありますが、それを読んでいる人がいる、という連想が薄まっているのでは
ないでしょうか。どうせ知り合いしか読まないと思えば、人間、
伝えたい欲というのも徐々に薄まっていくんですね。
ネタが枯れて「出かけたが空振りだった」という記事はあり、なのでしょうが、
期待した理由と、空振った理由はあるはずなのです。
さて、ここまではいわば前振り。
興味関心を持つことは第一歩だと思いますが、なぜそうなるのか、
そうなってしまうのかまで踏み込まない人が非常に多いわけです。
それが高齢者に起こってしまうと、悲しい思考の衰えです。
カメラを持って立ちつくしている人がいたら、
「この人は何を撮りに来たんだろう」
何かにレンズを向けていたら
「何を撮っているんだ?レンズの先に何がいるんだ?」
これが普通の思考過程と思うのですが、
あくまでも個人的な意見で、実際そうでもないようです。
好奇心の個人差を超えていると思います。
自分はよく野鳥の写真を撮りますが、特定の場所では
同じカメラを持った人に出会いますが、その何割かは反射的に
シャッターを押しているように見えます。
不思議なことに世の中にはピンボケ写真を撮ってしまって、
これは何という鳥だろう、と聞く人もいます。
え?何という鳥だと思って撮ったの?
そういう人に限って、わからないから撮影した、と言います。
もちろん肉眼よりもカメラの性能のほうが優秀で、撮影画像から
判別できることもよくあります。
ただピンボケ写真なら、肉眼のほうが情報が多いはずなんですよね。
野鳥の識別はシルエットや動き、鳴き声である程度わかります。
画像はというと望遠レンズで撮っても、
光の加減や角度で識別が難しいことも多いのです。
その人は言うのです。
鳥の名前を知りたいだけなんだよ。
でも、その画像の種名が判明したところで、やっぱり次回はわかるように
なっていないのです。
カメラが趣味、という人がいます。
定年退職をしたので、何か趣味に走ろうと思ってカメラを買ってみた。
カメラを持って毎朝漠然と散歩をしている。
でも撮りたいものがなくて、撮影の楽しさが理解できていないと
上達もないわけで、徐々につまらなくなります。
きれいな景色どまりでは限界があります。
もしくはマンネリでいい、新たな何かを求めない、というスタンスになります。
他人からの刺激がなければなおさらです。
↑常連のカルガモを撮ろうと思うのは、子ガモを連れている時期ぐらいですけどね。
近所の川面を眺めると、カルガモたちがたくさんいます。
人を恐れる様子はほとんどありません。
スズメもカラスもハトも一部のカモメもカルガモ同様ありふれています。
野鳥撮影の楽しさはそんなありふれたなかから、
自分なりのありふれていないものを見つけ出すことに楽しみがあるのだと
思います。
もちろん思った通りに撮影できるとは限りません。
でも偶然もしくは必然にまかせて、見つけ出すことにあります。
撮影の前に、観察が必要です。撮影を前提に成功パターン、失敗パターンを
選別する先に上達があります。
夏が過ぎてときどきカルガモの群れの中にマガモやコガモが混じるように
なりました。でも川にいるカモとしか認識していない人も多くいます。
↑羽色が冬にかけて徐々に変わるマガモ♂を観察するのも面白いはず(17年10月)
↑これはもう少し進んで(16年11月)
↑同じ時期ですがこっち(写真上)はすっかり繁殖期の羽色に変わってます。
逆にカメラを持っていても鳥の名前は知らない、と胸を張る人もいます。
ある観察者のリストによればかつてその川の流域では3年間で100種を超える
野鳥が観察されたそうです。珍種をのぞけば年間40種やそこいらは
出会える計算です。でも季節の移り変わりと「ありふれてない」情景に
関心がないとは悲しいことです。
さすがにカメラも何も持たないただの散歩のおじさんにしてみれば、
カモもカモメも単なる鳥でしょうけど。
歩くのだけ(外の空気を吸うことだけ)が目的の散歩ですから…。
朝、巡回していると鳥に餌をやっている高齢者もいます。
カラスやカモメに餌をやる必要があるのかと思いますが、
彼らはよく知っているのでそういった高齢者のまわりに寄ってきます。
犬や猫を飼っているならいざしらず、野生の生き物に餌をやることで
コミュニケーションをとりたくなる心境。
というよりも別に野鳥に関心があるわけではないので、単に反応を
楽しんでいるだけ。そこに深い思考はありません。
これが劣化と無関心とそして「個人的なそこまでの積み重ね」によって
醸し出される愛の薄い郷土の一面だとは思いたくはないのですが。
ま、写真撮影の技術があるのに、伝えたいことがないという
パターンも悲しいですけどね…。
↑図体ばかりでかくて、親の前で「お腹空いたよ~」とねだりまくるオオセグロカモメ幼鳥。親はガン無視。よく見る光景ですが、これを人間に置き換えて見ると楽しいと思うんですけど。
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