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2017年1月16日 (月)

ナニをいまさらの「函館」のルーツ

決してノスタルジーに満ちた話を中心に

展開しようと思っているのではありませんが、

いっときちょっと話題が傾きます。

個人的なことはどうでもいいと思いますが、

ある程度立場を明確にしておかないと、

違う視点から見たら、まったく違うものが見えますからね。

自分のバアイ、

両親は函館生まれ。

父方の祖父は新潟出身。父方の祖母は函館生まれ。

母方の祖父は福井出身。母方の祖母は函館生まれでも

その父は福井の人間だそうです。

いまの函館市民で四代続けて函館生まれ、の人の比率は

どれぐらいいるのでしょうか?

まあ、調べてもどこにもそんなデータはないでしょうね。

日米和親条約で函館の開港が決まったのは1854年、安政元年ですが

実際の開港の起源は1859年、安政六年ということになっています。

2017年でその開港から157年。

日本全体から見ると歴史の浅い街です。でも北海道の中で見ると

もっとも歴史ある街ということになります。

1920年、大正九年の第一回国勢調査では人口14万5千人。

札幌や仙台を上回り、全国第9位の人口を誇る大都市でした。

ここで明治~大正~昭和の函館の経済の活況について

語るつもりはありません。

早い話が「人が集まる街」だったわけです。

いろんなルーツを持つ人々が集まる街。

1934年、昭和九年の未曾有の大火の被災を乗り越え、

敗戦から立ち直り、北洋漁業が栄華を極めた時代もありました。

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(↑北洋資料館)

ちょうど昭和が平成にかわる頃、その北洋漁業の終焉と

ともに青函連絡船の時代も終わり、平成時代に突入したというわけです。

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1922年、大正十一年、函館に市制がひかれた当時の市域は

現在の2.8%!

言い換えれば現在の市の面積は当時の約35倍!

1939年、昭和14年、函館は隣接する「湯川村」(合併直前に町制)と合併して

最初の11.5倍の広さになりました。昭和九年の大火のとき、

湯の川温泉は函館じゃなかったんですね。

151007kusatsu8

その後、銭亀沢村、亀田市と合併。

2004年、平成16年、戸井町、恵山町、椴法華村、南茅部町

大型合併、現在の市域になったわけです。

(2004年はあれから10年と言えば言えなくもありません)

とても残念な気もしますが、それが自分の現状の答えです。

何の答えかって? 例の件です。

旧市街にこだわる人の気持ちもわかります。

150929hiyorikan

↑元町のかつての本籍地付近、景観保存建築?

自分のかつての本籍地はバリバリ旧市街ですが、

生まれ育った場所は、隣接地域でしたから。

この行政区分上の函館市と、基幹産業?としてみた観光を

考えたときの「函館」のギャップはそこにあります。

ま、今回の掘り下げはここまでです。

半年ちょっと前から函館駅の構内にこんなボードが掲示されています。

170115art2

去年の市内の小学校卒業生1967名がハガキ4分の1ほどのサイズの紙に

新幹線開業で函館を訪れる観光客にメッセージを寄せています。

170115art3

どんなに近寄っても全員のものを読むことはできませんが、

そんな大人のギャップなんて埋めようと思えば、

埋められるのでは?そう思うのです。


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