ナニをいまさらの「函館」のルーツ
決してノスタルジーに満ちた話を中心に
展開しようと思っているのではありませんが、
いっときちょっと話題が傾きます。
個人的なことはどうでもいいと思いますが、
ある程度立場を明確にしておかないと、
違う視点から見たら、まったく違うものが見えますからね。
自分のバアイ、
両親は函館生まれ。
父方の祖父は新潟出身。父方の祖母は函館生まれ。
母方の祖父は福井出身。母方の祖母は函館生まれでも
その父は福井の人間だそうです。
いまの函館市民で四代続けて函館生まれ、の人の比率は
どれぐらいいるのでしょうか?
まあ、調べてもどこにもそんなデータはないでしょうね。
日米和親条約で函館の開港が決まったのは1854年、安政元年ですが
実際の開港の起源は1859年、安政六年ということになっています。
2017年でその開港から157年。
日本全体から見ると歴史の浅い街です。でも北海道の中で見ると
もっとも歴史ある街ということになります。
1920年、大正九年の第一回国勢調査では人口14万5千人。
札幌や仙台を上回り、全国第9位の人口を誇る大都市でした。
ここで明治~大正~昭和の函館の経済の活況について
語るつもりはありません。
早い話が「人が集まる街」だったわけです。
いろんなルーツを持つ人々が集まる街。
1934年、昭和九年の未曾有の大火の被災を乗り越え、
敗戦から立ち直り、北洋漁業が栄華を極めた時代もありました。
ちょうど昭和が平成にかわる頃、その北洋漁業の終焉と
ともに青函連絡船の時代も終わり、平成時代に突入したというわけです。
現在の2.8%!
言い換えれば現在の市の面積は当時の約35倍!
1939年、昭和14年、函館は隣接する「湯川村」(合併直前に町制)と合併して
最初の11.5倍の広さになりました。昭和九年の大火のとき、
湯の川温泉は函館じゃなかったんですね。
2004年、平成16年、戸井町、恵山町、椴法華村、南茅部町と
大型合併、現在の市域になったわけです。
(2004年はあれから10年と言えば言えなくもありません)
とても残念な気もしますが、それが自分の現状の答えです。
何の答えかって? 例の件です。
旧市街にこだわる人の気持ちもわかります。
自分のかつての本籍地はバリバリ旧市街ですが、
生まれ育った場所は、隣接地域でしたから。
この行政区分上の函館市と、基幹産業?としてみた観光を
考えたときの「函館」のギャップはそこにあります。
ま、今回の掘り下げはここまでです。
半年ちょっと前から函館駅の構内にこんなボードが掲示されています。
去年の市内の小学校卒業生1967名がハガキ4分の1ほどのサイズの紙に
新幹線開業で函館を訪れる観光客にメッセージを寄せています。
そんな大人のギャップなんて埋めようと思えば、
埋められるのでは?そう思うのです。
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