★いわゆる「谷地坂問題」第11回★観光部とブログ主、それぞれの見解
というわけで、観光部担当者とブログ主が意見をぶつけてみた内容を
以下のように整理します。
(1)谷地坂問題
観光部の見解:
1982年の「はこだて歴史散歩」(北海道新聞社刊)に、この坂を上って人々は谷地頭に
向かったので谷地坂というらしい、とある。
もしいまさら違うと言っても取り返しがつかない。
ただし、わかりにくいことは確かなので修正する必要はあると思う。
谷地頭に通じる「道路」と交差しているだけでそう呼ぶには無理がある。
「はこだて歴史散歩」以外の文献が提示されていないし、当書にも「らしい」と記述している。
谷地=谷地頭と短絡すべきではないのではないか
また函館市が坂標として掲示して以降、市民・住民がそう納得してしまったのなら、
谷地坂を呼称として使い続ける理由にはならない。
修正する必要を感じてもらうのはよいが、具体的にどう修正するのか。
この坂をそういう理由で谷地坂と呼ぶ説もある、という記述でもするのか。
繰り返すが、冨岡章氏の古地図分析出版では、となりの坂を「谷地ノ坂」と記述している。
改訂・改装の費用を理由に根拠のない坂標を掲示しつづけて、誤解を拡大するのは
個人的には好ましくないと考える。これまでどれだけの期間そのようにあったかは
この際問題ではない。
★谷地坂と谷地頭の位置関係を再掲
多少、昭和9年大火時代と
ずれていようが、谷地頭で向かう道路(青の→)の距離のほうが圧倒的に長く、
この道路は函館公園の正面口を経由して、谷地頭方面に向かうが、
実は谷地頭温泉にも現在の谷地頭終点にも直通していない。
昭和9年大火以前のこの部分の街区が現在と異なっていたとしても、
谷地頭へ向かう道路として機能していたなら、函館公園先で右折、左折が
不要な形に修正されていたはず、と推測できる。
赤○から谷地頭に向かうとして、通るべき坂であるか?
つまり昭和9年以降は緑の点線であるところの「電車通り」のほうが主要な
通りであり、昭和9年以前の呼称が仮に存在したとしても継承すべきでない。
よって、担当著者が明らかにならない(執筆分業)「はこだて歴史散歩」は
信頼に足らない。
(2)八幡坂坂標問題
観光部の見解:
坂の上に八幡宮があった、という古地図の証拠があったので当該古地図をいったん提示。
指摘内容が西高の位置に八幡宮があったように誤解する、という主張であるとは
最初気づかなかった。
「1804年、奉行所の工事に伴い、この坂の上に移された」は
「1804年、奉行所の工事に伴い、当時の坂の上に移された」などと修正したい。
ブログ主の見解:
肝心なのは当時(明治11年の大火以前)と現在では坂の長さがまったく違うことを
認識し、坂標の記述から誤解を受けないように取り計らうことが指摘の主旨
……
この修正では当時の坂がどういう坂なのかは不明瞭ではあるけど
いまの西高の八幡宮があったとは言ってないよ、となるでしょうね。
この程度のやりとりに2か月もかかることが大きな問題でしょ?
指摘は理解するけど、すぐに修正できない、とストレートに逃げることも
せず、いたずらに先延ばしにした事実は変わらないから。
もちろん観光部の立場も理解しなくはないけど、この対応の遅さと
ルーズさは公表すべきものじゃないかと思います。
さあ、市民の皆さん、時間はかかるらしいが、この両坂標の行く末を
関心を持って見守っていただければ…。
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