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2015年8月18日 (火)

★ナツタビ山口編=吉田松陰→松下村塾★そのうまく伝わらない「偉業」について

おっとナツタビ2の総括が途中だった。

すっかり忘れておった。

優先順位的には

萩・長州問題でしょうかね。

つい先日、NHKBS103の「英雄たちの選択」で、

長州&会津が取り上げられておりましたが、

両者の価値観の違いは、幕末の十数年だけの話じゃないんだよね。

それぞれ引くに引けないものがあった、ということは

番組でよくわかったつもり。

で、萩市内の観光をするとして、まず押さえるのが

松陰神社+松下村塾でしょ。

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吉田松陰の生没年は1830-1859で、安政の大獄で処刑されたことは有名。

で保存された松下村塾の建物に掲示された13名の肖像(松陰含む)は

木戸孝允1833-1877
前原一誠1834-1876
境二郎1836-1900(島根県令)
山県有朋1838-1922(総理3,9内務1-3司法7)
高杉晋作1839-1867
久坂玄瑞1840-1864
伊藤博文1841-1909(総理1,7,10)
野村靖1842-1909(逓信6,内務11,神奈川県令3)
品川弥二郎1843-1900(内務6)
河北義次郎1844-1891
山田顕義1844-1892(司法1)
飯田吉二郎1847-1923

生年順。

吉田松陰が処刑された年の年齢はこの中の最年長が木戸孝允で26歳。
最年少は飯田吉二郎(俊徳)で12歳。
つまりなぜこの12人の門下生?と思わないのだろうか。

観光地化はいいんだけど。

松陰先生と先生をつけることも別に気にならないけど。

松下村塾には塾生名簿が存在していないようだから、ここは難しいポイントかもしれないけど、

重要なのは松陰が命を落として以降、禁門の変により、攘夷を唱える長州藩は朝敵とされたわけだ。

そこから大政奉還によって、新政府の主力となるまでの間、吉田松陰の評価は

どうだったのか。

門下生たちが心のどこかに肩身の狭い思い、汚名返上的な思いを抱いていたことは

想像に難くない。

例えば伊藤博文18歳。ここで松下村塾出身ということがどれほど重要だったのか、と。

幼い頃、松陰先生に教えを乞うたことが、後の初代内閣総理大臣を生んだ、は

短絡じゃないすか?

そういう意味で明治新政府の中の勢力争いも含めて、もっと大きな歴史のうねりが

繰り返されていたわけで、「松下村塾すごい」は浅いと思うし、その後の塾生たちの

「道」をちゃんと展示すべきでしょう。

あの肖像画13枚では素人に何も伝わらん。

1863年に英国留学をした長州五傑を題材にして「長州ファイブ」という映画が

製作されているが、松下村塾の絡みがあるのは伊藤ひとり。

ということで松陰英雄視をもう少し押さえたほうがいい気がしたし、

長州藩下の教育体制のルーツがもうちょっと伝わったらよかったのに、

と思うわけで。

松陰神社敷地内に併設の松陰歴史館が彼の生涯を追っただけの蝋人形館だったので

残念でした。

それにしても幕末~維新の歴史の流れの速さは教科書ではとても追いつけない、

と思いますがね。

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