★坂物語に入る手前の基礎知識★明治の函館市街地、焼けまくり
函館山が休火山であり、かつて噴火したのちに砂が堆積して
陸繋島(りくけいとう)となり、くびれのある不思議な地形がかたちづくられたことは
誰でも知ってると思います。
街は函館山の麓から始まり、正確には現在の弁天町のあたりをスタート地点に
まずは山麓に沿って広がり、続いて平野部に徐々に伸びていきました。
大正末期、昭和の初め頃には十字街電停の一本裏手の通りが
「函館銀座」と呼ばれたモダンストリートだったわけです。
その後、JRの駅があるあたりが中心街になり、北島三郎の大ヒット曲
「函館の女」でも歌われたように松風町が繁華街の中心となりました。
昭和九年の大火の後は現在飲食店がもっとも集中している本町・五稜郭のあたりが
開発され、杉並町、柏木町…と住宅街は伸びていきます。
昭和三十年代には湯川、四十年代には日吉、そしてその後
隣接の亀田町(市)と合併し(1973年)、ベッドタウン化、
街はどんどん函館山・旧市街とは逆方向に発展していきました。
(函館市の人口のピークは亀田市と合併直後の1980年ごろ)
昭和九年(1934年)以前にもたびたび大火に見舞われた函館の街は
戦前に都市計画によって災害から復興した地方都市、という独自性を持つ反面、
旧市街の大規模な再開発は行われず、それが明治期の異国情緒を残す、
独特の都市景観になったわけです。
ハコダテ人の感覚としては「なるようになる」精神のいっぽうで、
心理の奥底に擦り込まれた災害の記憶は、新しいほうへ新しいほうへの志向となり
格別、古いものを大切にした結果ではないんじゃないかな?と思うんですがね。
ということで、坂の話に入る前に、
何度も大火事でぐちゃぐちゃになった街は、(明治以降1000戸以上焼失の火災は10回)
当時さまざまな防災の工夫を
施したにもかかわらず、80年前に過去最大の被害を食らい
(死者2166人→市内の50%が罹災)
開き直った結果、現在があるのじゃないかと思います。
途中が抜けてたことが、功を奏したんじゃないでしょうか。
参考資料:函館大火史(函館市HPより)ほか
« ★坂の街函館?★港としての歴史を思えば…というテーマ特集 | トップページ | ★函館の坂、全体像その1★西部(弁天町~大町)の七坂 »
「函館坂物語19プラス」カテゴリの記事
- はっきり言って函館市は信用できません。以上(観光掲示板の谷地坂の件)(2016.07.12)
- 【函館駅の無用の長物=第二回】函館の冬の坂は…(2016.06.25)
- いやあ自分でもびっくりしました。函館駅に無用の長物???(2016.06.21)
- ★いわゆる「谷地坂問題」第11回★観光部とブログ主、それぞれの見解(2016.06.05)
- ★「谷地坂問題」第10回★すべてを「函館だからのんびりしている」で片づけましょう(2016.06.04)
« ★坂の街函館?★港としての歴史を思えば…というテーマ特集 | トップページ | ★函館の坂、全体像その1★西部(弁天町~大町)の七坂 »
コメント