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2015年8月25日 (火)

★坂物語に入る手前の基礎知識★明治の函館市街地、焼けまくり

函館山が休火山であり、かつて噴火したのちに砂が堆積して

陸繋島(りくけいとう)となり、くびれのある不思議な地形がかたちづくられたことは

誰でも知ってると思います。

街は函館山の麓から始まり、正確には現在の弁天町のあたりをスタート地点に

まずは山麓に沿って広がり、続いて平野部に徐々に伸びていきました。

大正末期、昭和の初め頃には十字街電停の一本裏手の通りが

「函館銀座」と呼ばれたモダンストリートだったわけです。

その後、JRの駅があるあたりが中心街になり、北島三郎の大ヒット曲

「函館の女」でも歌われたように松風町が繁華街の中心となりました。

昭和九年の大火の後は現在飲食店がもっとも集中している本町・五稜郭のあたりが

開発され、杉並町、柏木町…と住宅街は伸びていきます。

昭和三十年代には湯川、四十年代には日吉、そしてその後

隣接の亀田町(市)と合併し(1973年)、ベッドタウン化、

街はどんどん函館山・旧市街とは逆方向に発展していきました。

(函館市の人口のピークは亀田市と合併直後の1980年ごろ)

昭和九年(1934年)以前にもたびたび大火に見舞われた函館の街は

戦前に都市計画によって災害から復興した地方都市、という独自性を持つ反面、

旧市街の大規模な再開発は行われず、それが明治期の異国情緒を残す、

独特の都市景観になったわけです。

ハコダテ人の感覚としては「なるようになる」精神のいっぽうで、

心理の奥底に擦り込まれた災害の記憶は、新しいほうへ新しいほうへの志向となり

格別、古いものを大切にした結果ではないんじゃないかな?と思うんですがね。

ということで、坂の話に入る前に、

何度も大火事でぐちゃぐちゃになった街は、(明治以降1000戸以上焼失の火災は10回)

当時さまざまな防災の工夫を

施したにもかかわらず、80年前に過去最大の被害を食らい

(死者2166人→市内の50%が罹災)

開き直った結果、現在があるのじゃないかと思います。

途中が抜けてたことが、功を奏したんじゃないでしょうか。

参考資料:函館大火史(函館市HPより)ほか

110926hakodate_hakubo

(11/09/26撮、暮れゆく市街地)

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